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1956年 エジプトのスエズ運河をめぐる対立は
国際的危機と戦争へと発展した
斜陽の宗主国イギリスとフランスは
エジプトには簡単に勝利できると考えていた
しかし 屈辱的な撤退を余儀なくされ
新たな超大国がその力を見せつけた
それはヨーロッパ帝国主義時代の終焉と
新しい国際秩序の誕生を告げる鐘であった
今日では余り知られていない出来事だが
56年のこの事件はイギリスとフランス
アラブ世界、イスラエル、そしてアメリカに
多大な影響を及ぼした
これは その後数十年の世界情勢を決定した
スエズ危機の物語である
1.『大英帝国の背骨』(ドイツ首相ビスマルク)
1869年 スエズ運河の開通により
世界の交通路は変貌した
01:30
エジプトの砂漠を100マイルに渡って貫く
この人工の水路は―
ヨーロッパからアジアへの航路を5000マイル
短縮し アフリカを廻る必要が無くなった
工事はフランスの外交官
フェルディナン・ド・レセップスが監督し
10年の歳月と数千人の
エジプト人労働者の命を犠牲にした
運河を経営するスエズ運河会社は
株主が所有する民間企業であった
株主にはエジプト総督イスマイル・パシャの他に
フランス、オーストリア、ロシアの投資家も含まれた
1875年 総督は多額の負債返済のため
運河会社の株44%を英国政府に売却する
世界最強の帝国と海軍を持つ英国は当初
スエズ運河を潜在的な脅威と考えていた
しかしすぐに運河の恩恵を最も受けるようになる
運河を利用する船舶の8割が英国船であり
東洋の大英帝国植民地と―
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「王冠の宝石」インドに通じる生命線となった
そのため運河の支配とエジプトの安全保障が
英国の戦略上重要な関心事となった
1882年 ヨーロッパの干渉に対する
エジプト人の不満が革命へと発展
アフマド・オラービー大佐が主導した
英国は軍を派遣して武力介入する
「ウラービー革命」(1882年)
エジプト軍は敗北した
以後60年間 エジプトは事実上
イギリスの保護国となる
スエズ運河の支配は 二度の世界大戦で
イギリスに多大な戦略的優位をもたらした
しかし第二次大戦後 大英帝国は衰退しつつあった
インド、パキスタン、ビルマが独立
マレー、ケニア、キプロスでは
英国支配に対する叛乱が起きていた
エジプトは1922年に独立していたが―
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イギリスは引き続き軍を駐留させ
国政に大きな影響を与えていた
1947年 英軍は撤退するが
スエズ運河地帯に居座った
エジプトのファルーク国王が結んだ 1956年まで
英軍のスエズ駐留を認める協定に基づいていた
「アングロ・エジプト条約」(1936年)
しかしエジプト国民は国王に反発し始める
ユダヤ国家イスラエルの建国を阻止できず
第一次中東戦争に敗北したことで批判が噴出していた
そして英軍の駐留を許していることについても
不満がたまっていた
運河地帯の中では英国の軍人や民間人が
地元の人間から襲撃を受け始める
暴動や放火 銃撃戦まで起こり、
英軍は戒厳令を敷いた
1952年 エジプト陸軍士官の組織
「自由将校団」が決起する
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軍事クーデターによって政権を奪取した
「エジプト革命」(1952年)
ファルーク国王は退位させられ、
亡命先のイタリアで優雅に暮らした
翌年 エジプトは共和国となった
ガマール・アブドゥル・ナセル大佐が
エジプトの新大統領に就任する
カリスマ的なアラブ主義者であり エジプトを
外国の干渉から解放すると決意していた
2.『ナセルは最後まで東西から漁夫の利を得ていた』
(イブリン・シャックバラ英首相秘書官)
1950年代 アメリカと西側は
ソ連と冷戦状態にあった
「鉄のカーテン」がヨーロッパを
共産主義の東側と資本主義の西側に分断していた
両陣営は同盟国の獲得と敵側の妨害工作を
世界中で行なった
エジプトはアラブ国家の中では最大最強であり
東西どちらにとっても重要な価値があった
しかしナセル大統領はどちらになびくのだろうか?
06:43
アメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは
ナセルを味方に引き入れようとした
しかしナセルの要求した兵器輸出に応じられなかった
アメリカに支持者が多くいるイスラエルに向けて
使われることは明白だったためだ
代わりに米英はアスワンダム建設の
資金援助を申し出る
ナセルのエジプト経済近代化政策の中核だった
さらにイギリスは1956年6月までに
スエズ運河から軍を撤収することに同意した
しかしその頃 イスラエルと周辺国の対立が激化し
イスラエル軍がエジプト支配下のガザを攻撃する
38名のエジプト軍兵士が殺害された
このガザ襲撃でナセルはエジプト軍の近代化が
急務だと感じるようになった
アメリカが助けないならと
ナセルはソ連側に接近した
共産圏のチェコスロヴァキアから
戦車と航空機を大量に購入する
07:56
この取引はアラブ世界で大きく歓迎された
さらにナセルは共産中国と国交を結び
アメリカの怒りを買う
ナセルとの同盟策は
アイゼンハワーの頭痛の種となり
米英はアスワンダムへの資金援助を停止した
この行動はイギリスもアメリカも予想しなかった
深刻な影響を世界に与えることになる
3.『今夜からエジプトの運河は
エジプト人が運営する!』(ナセル大統領)
1956年7月26日 ナセルの宣言が
世界に大きな衝撃を走らせた
エジプトによるスエズ運河会社国有化である
「我々が自らの命と、髑髏と、骨と、
血で運河を造ったのだ」
「収益は我々のものだ。
スエズ運河は我々が経営する」
「アスワンダムは我々の手で建設する」
09:18
英米がダム建設に出資しないのなら
ナセルはスエズ運河の収益を使うつもりでいた
ナセルの演説はエジプト国民から熱狂的に支持された
ナセルの行動は完全に合法だった
会社の株主は公正な価格で買収されていた
だが彼の決断は国際的危機と戦争
新たな勢力均衡の時代の始まりとなった
イギリス首相アンソニー・イーデンは
イギリスの国益への攻撃だと憤慨した
1年に1万5千隻がスエズ運河を通過している
そして英国経済に欠かせない資源を
中東から運んでいた
「……現在、我が国の工業のみならず、西ヨーロッパ、
スカンディナビア諸国、
10:29
その他多くの国々に不可欠な石油の半分が
運河を通っています」
「これは私達全員の生死に関わる問題です」
ナセルは イーデン曰く「我々の喉元を締めている」
イーデンは1930年代から第二次大戦まで
外務大臣を務めていた頃
平和のために独裁者の要求に応じる
「宥和政策」への反対論者として有名だった
しかし今 体調不良と疲れきった神経が
彼の判断力を曇らせた
イーデンは ナセルはヒトラーや
ムッソリーニの再来であり
イギリスが倒すべきアラブの独裁者だと思い込んだ
このエジプト大統領を
排除せねばはならないと決心した
フランス首相ギー・モレもイーデンの考えに賛成した
モレにはナセルを倒したい理由がもう1つあった
フランスはアルジェリアで ナセルの支援を受けた
独立勢力と凄惨な戦争を繰り広げていた
11:48
こうして英仏は極秘に軍事作戦の計画を始める
スエズ運河の支配権を奪い ナセルを失脚させ
大国の威信を取り戻すことを目論んだ
56年夏 アメリカの圧力を受けたイーデンは
国際会議を開催する
平和的解決に向けた最後の試みだった
「スエズ会議の初日、ロンドンの
ランカスター・ハウスには群衆が集まりました」
「22カ国が出席し、エジプトとギリシャだけが
この重要な会議を欠席しました」
22カ国中18カ国が スエズ運河を国際共同管理に
戻すべきという英仏の主張に賛同した
ナセル大統領はこの案を明確に拒否した
アメリカ国務長官ジョン・フォスター・ダレスは
英国政府に対し
この状況でもアメリカはエジプト攻撃を
支持しないと通達した
ダレスは ナセルへの軍事攻撃によって
アラブ世界全体がソ連側に流れる可能性を恐れていた
13:11
また、アイゼンハワー大統領は二期目を目指して
選挙運動中であり 混乱は避けたかった
イーデンはアメリカの警告を無視し 命運は決した
英仏はすでに戦争への道を選んでいた
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